展覧会『鈴木敏夫とジブリ展〜宮さんは絵を描き、僕は字を書く。〜』が熱い—鈴木敏夫の言葉の魔法にかけられて
ジブリ作品の名シーンと鈴木敏夫が書いた名台詞が立体的に展示され、スタジオジブリの世界に!
第四章 ジブリにまつわるエトセトラ
鈴木敏夫は、徳間書店『アニメージュ』編集部に在籍しながら、1984年公開の映画『風の谷のナウシカ』以来スタジオジブリの作品に携わるようになる。1989年公開の『魔女の宅急便』が転機となり、実質的にプロデューサーとして宣伝も担当。この頃になると、宮崎駿監督からスタジオジブリの専従になるよう求められ、徳間書店を退社。42歳のときにスタジオジブリの取締役に就任し、1991年公開の映画『おもひでぽろぽろ』から正式にプロデューサーとして映画作りに加わることになる。鈴木敏夫の「言葉」を最大の武器に、作品の題字やキャッチコピー、ボディコピーなども担当。このエリアでは、題字、原稿、ポスターデザインなどの貴重な資料を通して、鈴木敏夫が「言葉」を紡ぎ出すプロセスやプロデューサーとしての「表現」が紹介されている。ジブリ作品ではお馴染み、「おわり」の文字と資料も要チェック!
第五章 自分のためでなく他人のために
制約がある中でやった方がいい仕事ができる—作る人が自由に好きなものを作っても、なかなかいい作品はできない。むしろ、制約をかけられて、それを克服しながら作ると、いいものができるんです。—これは、鈴木敏夫の言葉。映画作りでは、プロデューサーの鈴木敏夫と監督の高畑勲監督・宮崎駿監督の関係は、パトロンと芸術家の関係に似ており、鈴木敏夫が字を書くときはその立場を逆転させる。書を独自で学んだ鈴木敏夫は、「自分の気が向くままに書いていると、どうしても好きな文字だけしか書かない。ところが、注文されると、普段はあまり書かない文字に取り組むことになる」と、自分のためではなく、他人のために仕事をすることで、いい仕事ができることを伝えている。このエリアには、鈴木敏夫が知人や友人にプレゼントした書や色紙なども展示されている。