日本初の大規模な展覧会『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』が開幕—バスキアに王冠を捧げ、時代や感情を重ねる
ジャン=ミシェル・バスキアは、日本国の高度経済成長期と同時期に活躍。1970年代と1980年代、アメリカ合衆国をはじめとする海外のユースカルチャーやポップカルチャーにも大きな影響を与えた日本国のファッション、映画、テレビ、特撮、アニメ、マンガなどと共に、質の高い電化製品、革新的な電子機器、おもちゃ、ビデオゲームなどには日本製を示す「Made in Japan」(メイド・イン・ジャパン)の表記があった。彼は、作品に「MADE IN JAPAN©︎」(メイド・イン・ジャパン)の文字を描いており、彼が生き、活躍した時代に「Made in Japan」(メイド・イン・ジャパン)の表記がいたるところに存在し、その時代と影響を物語っている。彼の「MADE IN JAPAN©︎」(メイド・イン・ジャパン)は、彼の傑作のうちの2作品に与えた名であるほか、『Onion Gum』(『オニオン・ガム』)や『Untitled (Magic Puzzle Set)』(無題(魔法のパズルセット))など多数の作品に描かれた。また、彼は、高度経済成長の絶頂期であった1982年、1983年、1985年、少なくとも3回は来日し、自ら日本国を感じ、カルチャーや人にインスパイアされた。シンガー/ソングライターのBob Marley(ボブ・マーリー)などを撮影したフォトグラファーのLee Jaffe(リー・ジャッフ)も一緒に来日、日本国でのジャン=ミシェル・バスキアの姿を写真に収めており、本展覧会でもそのときの写真が展示されている。日本国・日本人がジャン=ミシェル・バスキアに与えた影響は、日本国・日本人に捧げていると思われる作品『Made in Japan I』(『メイド・イン・ジャパン 1』)や『Made in Japan II』(『メイド・イン・ジャパン 2』)のタイトルからもわかるほか、『Napoleon』(『ナポレオン』)に描かれた当時の市場価格「ONE MILLION YEN」(100万円)の文字、『Untitled (100 Yen)』(『無題(100円)』)の「100 YEN」(100円)の文字、ゴジラ、鉄人28号、ひらがな、空手の動き、生魚、「トーヨーのおりがみ」という文字と一緒に描かれた折り紙のドローイング、仏閣のスケッチなど、作品のタイトルや作品の至るところに見られる。今回、彼が生前、東京滞在中に制作した作品も展示されているので必見!さらに日本国の歴史、日本国とアメリカ合衆国・ヨーロッパ諸国の関係性も批評的に作品に取り込み、1986年から制作された『Untitled』(『無題』)には“KING KONG VS. GODZILLA”(キングコング対ゴジラ)を描き、欧米と日本国の経済・財政的な競争や闘争をそれぞれの国が持つ怪獣映画に移し変えて表現した。また、戦後世代の彼は、大日本帝國軍による真珠湾の奇襲攻撃、その後のアメリカ合衆国軍による原爆投下から大日本帝國の無条件降伏、アメリカ合衆国の占領に至るまでの第二次世界大戦の歴史を喚起する作品もある。1983年から1987年の間、小さい規模ではあったものの日本国のアキラ・イケダ・ギャラリーを含むギャラリーや美術館などで6つの個展と9つのグループ展が開催され、ジャン=ミシェル・バスキアが日本国・日本人に魅了されたのと同様に、日本国・日本人もジャン=ミシェル・バスキアに魅了されていった。
8冊のノートブックの存在
ジャン=ミシェル・バスキアのノートブック8冊の存在がある。本展覧会では、8冊のうち6冊のノートブックのすべてのページが展示されている。ジャン=ミシェル・バスキアは、1980年から1987年まで、白黒のマーブル模様の表紙のノートブックに、作品に繰り返し登場する王冠、顔、建物、ティピーなどといったドローイングやピクトグラムと共に散文や詩、スケッチ、文化・人種・階級・都市生活に関する個人的な観察や思想を手書きで綴った。作品を創造するプロセスの一部であったこのノートブックは、貴重な資料であり、センスとユーモアが溢れるジャン=ミシェル・バスキアの頭と心の中を垣間見ることができる。ノートブックのページをそれぞれよく見ると、ドローイングやピクトグラム、詩的な言葉やフレーズの視覚的な配置、ページの余白さえ、アート(作品)として捉えることができる。ディーター・ブッフハートは、「彼の6冊のノートすべてのページが展示され、素晴らしい展示になっています。彼の想像力の源がどこにあったのかを感じることができるかもしれません」と説明した。
憧れの存在であり、生涯の友人
ジャン=ミシェル・バスキアは、1979年、キュレーターのHenry Geldzahler(ヘンリー・ゲルツァーラー)と一緒にソーホーのレストランで昼食をとっていたアーティストのアンディ・ウォーホルの元を突然訪れ、自身が描いたポストカードを売りつけた。ジャン=ミシェル・バスキアにとってアンディ・ウォーホルは、その存在、生き方、考え方、スタイル、人間関係など、すべてが憧れであり、リスペクトしていたのだ。アンディ・ウォーホルに自身の作品を買ってもらうことも夢の一つだったのかもしれない。その夢を実現させた。しかし、アンディ・ウォーホルは、当時ストリートギャングのような風貌のジャン=ミシェル・バスキアにあまり良い印象を持っておらず、距離を置いていた。ヘンリー・ゲルツァーラーもジャン=ミシェル・バスキアが若過ぎることを理由に追い払った。ジャン=ミシェル・バスキアがアーティスト/画家として頭角を現し、ニューヨークのアートシーンで存在感を放つようになった頃には、ヘンリー・ゲルツァーラーもジャン=ミシェル・バスキアの作品のコレクターになり、アンディ・ウォーホルとも打ち解け、親しくなり、共同で作品を制作するようになる。