日本初の大規模な展覧会『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』が開幕—バスキアに王冠を捧げ、時代や感情を重ねる
Jean-Michel Basquiat(ジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988))は、1960年12月22日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンで、プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれた。
1977年頃から1979年の終わりくらいまで、彼は高校の同級生・友人でプエルトリコ系のルーツを持つAl Diaz(アル・ディアス)と共にグラフィティ・デュオSAMO©︎(セイモ©︎)=Same Old Shit(いつもと同じさ、いつもと変わらないさ)として、ロウアー・マンハッタンのストリートや公的な空間で、政治や消費主義などの社会問題をテーマに詩のような言葉や記号をベースにグラフィティを描き続けた。1979年、彼は、SAMO©︎として1人でケーブルテレビ番組『TV Party』(ティヴィー・パーティー)に出演し、アル・ディアスのことについて一切触れなかったことが決定打となってアル・ディアスと不仲になり、ソーホーの壁に「SAMO©︎ IS DEAD」と描き、SAMO©︎としての活動に終止符を打った。その後、ノイズ・バンドGray(グレイ)を結成し、音楽活動をスタートさせたほか、ヴィジュアル・アーツ・カレッジでリスナーとして授業を受ける。同年、彼は、ニューヨークのソーホーのレストランで昼食をとっていたアーティストのAndy Warhol(アンディ・ウォーホル)の元を突然訪れ、自身が描いたポストカードを売りつけた。アンディ・ウォーホルは、彼にあまり良い印象を持っておらず、距離を置いていたという。その後、ストリート・アーティストの先駆者とも言えるアーティストのKeith Haring(キース・ヘリング)やコンセプチュアル・アーティスト/コラージストのBarbara Kruger(バーバラ・クルーガー)、キュレーター/アート・ディーラーのDiego Cortez(ディエゴ・コルテス)などと出会い、彼らのサポートを受け、ニューヨークのギャラリーで作品を展示、次第に世界中で個展が開催され、アートシーンで存在感を放つようになる。この頃になると、アンディ・ウォーホルとも打ち解け、親しくなり、共同で作品を制作、2人で展覧会を開催。当時、カルチャーが盛り上がりを見せるなかで、芸術・美術関係者をはじめ、アーティストやセレブリティ、若者たちからも崇拝されるアーティストとなっていき、時代とアメリカの新表現主義を代表する若き天才アーティスト/画家として、現代アート界に旋風を巻き起こし、スターダムに昇りつめるも、ドラッグの過剰摂取(オーバードーズ)によって1988年に27歳という若さでこの世を去った。
わずか10年の活動期間に新たな具象表現的な要素を採り入れた3,000点を超すドローイングと1,000点以上の絵画、アンディ・ウォーホルなどとの共同作品を残しており、それらの作品は彼の短い人生を物語るかのように強烈なエネルギーを放ち、20世紀のモダニズム美術の流れを踏まえ、ジャズやヒップホップ、アフリカ系アメリカ人(黒人)、人種、民族、社会問題、宗教、政治などの主題を扱っている。
死後も彼の生涯は注目され、1996年には映画『Basquiat』(邦題『バスキア』)、2010年には映画『Jean-Michel Basquiat: The Radiant Child 』(邦題『バスキアのすべて』)として映画化されるなどし、死後しばらくは評価されなかった作品も21世紀に入って突然評価が上がり、アメリカ人アーティストの中で最も高額な値段で世界中で売買され、いま現在も名声と作品の価値が上昇し続けているほか、アートやファッション、カルチャーに大きな影響を及ぼし、20世紀美術最大の巨匠の一人として確固たる地位を占めている。生前、自身の思想は語ったが、アートについて語ることを好まなかったことで、彼の作品については数冊のノートブック、インタビュー、記事、会話の録音、友人や知人の証言などからいまに伝えられている。
これまでにアメリカ合衆国のWhitney Museum of American Art(ホイットニー美術館)、イギリス(連合王国)のSerpentine Gallery(サーペタイン・ギャラリー)、アメリカ合衆国のBrooklyn Museum(ブルックリン美術館)、イギリス(連合王国)のBarbican Art Gallery(バービカン・アート・ギャラリー)、スイス連邦のFondation Beyeler(バイエラー財団)などで回顧展が開催されたほか、彼の作品は世界中の主要な美術館のパーマネント・コレクションやプレイベート・コレクションに収められている。
Onion Gum, 1983
本展覧会のタイトルは、この作品『Onion Gum』(『オニオン・ガム』)に描かれた「MADE IN JAPAN©︎」(メイド・イン・ジャパン)からつけられており、ジャン=ミシェル・バスキアと日本国や日本国の文化との結びつき、1980年代の日本国を当時のアメリカ人がどのように捉えていたかを明らかにしている。「MADE IN JAPAN©︎」(メイド・イン・ジャパン)は、『Onion Gum』(『オニオン・ガム』)や『Untitled (Magic Puzzle Set)』(無題(魔法のパズルセット))など多数の作品に描かれた。ディーター・ブッフハートは、「バスキアは、1980年代の初めに日本国に何度も来ているのですが、この国のイノベーション溢れるバイタリティに非常に魅了されました。彼は、1982年秋に日本国を初めて訪れました。たくさんのインスピレーションを感じたそうです。その後、多くの作品に日本円の記号「YEN」を使い始めました。当時、たばこのセブンスターを1つ買うのが200円だったそうです。来日時も帰国後もドローイングをしていますが、東京で描いた作品もあります。日本が大好きな彼は、日本に捧げるような作品も描いています」と説明した。